ふとした疑問から始まった
先日、ふと考え込んでしまった。
「BPO企業って、これからどうなるんだろう?」
まず、BPOという商売の本質
BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)は、企業が自社の業務の一部を外部に委託する仕組みだ。コールセンター、経理、人事、データ入力——「本業ではないけれど、誰かがやらねばならない仕事」を引き受けることで成り立ってきた。
もちろん建前としては、コスト削減や専門性の活用が理由に挙がる。だが実態としては、事業会社がBPOに仕事を出す動機の多くは、もっと素朴なところにあるのではないか。社員にやらせたくないからだ。
お金より社員の成長につながらない仕事、消耗するだけの仕事、責任だけ重くて割に合わない仕事——そういうものを外に出す。ここを押さえておくと、AIが来たときに何が起きるかが見通しやすくなる。
そこにAIがやってきた
では、生成AIが普及したらどうなるか。
私の読みはこうだ。事業会社は、AIを使って内製化を進める。 コストパフォーマンスが圧倒的にいいからだ。
「でも、運用設計とか、業務のAI化とか、専門的な仕事は外注が残るのでは?」——そう思う人もいるだろう。だが、それすらAIと壁打ちしながら自社でやれてしまう。かつては「専門知識が必要だから外注」と言えた領域が、担当者がAIに相談しながら片付けられる時代になった。皮肉なことに、BPOの「次の飯のタネ」とされたAI運用支援すら、AIそのものによって内製化されていく。
「専門性」の一部は、情報の非対称性で成り立っていた
ここで、一つ冷静に見ておきたいことがある。
BPOに限らず、外注ビジネスが売ってきた「専門性」や「ノウハウ」には、二つの層があると思う。一つは、現場の人たちが地道に積み上げてきた、本物の運用力や品質管理の仕組み。これは間違いなく価値がある。それを軽んじるつもりはまったくない。
だがもう一つの層がある。情報の非対称性だ。顧客が知らない、調べる暇がない、自分でやるのが面倒——この「顧客にはできない・やりたくない」という差そのものが、外注が成り立つ土台になってきた。これはBPOだけの話ではなく、コンサルでもSIでも、外注ビジネス全般に共通する構造だ。
生成AIが本当に揺さぶるのは、ここだと思う。AIが怖いのは、業務を自動化することそのものより、この情報の非対称性を、片っ端から埋めてくることだ。顧客がAIに相談した瞬間、「これ、外注する必要あった?」と気づいてしまう。
つまり問われるのは、「その専門性は、本物の運用力なのか、それとも非対称性に支えられていた部分なのか」という切り分けだ。前者はAI時代にも残る。後者は溶ける。この線引きが、これからの分かれ目になる。
最後に残るのは「社員にやらせたくない」だけ
こうして削っていくと、AIに置き換えられにくい価値の核が見えてくる。
それは、突き詰めると**「社員にやらせたくないことを、代わりに引き受ける」**という一点だ。
うちの社員にこの消耗をさせたくない、責任を負わせたくない、採用と離職の面倒を見たくない。極めて人間くさい、この理由は、AIがいくら賢くなっても消えない。むしろ、AIで巻き取れる業務が減ったあとに、「最後に人がやらざるをえないけれど、自社ではやりたくないこと」が濃縮されて残る。BPOの存在理由は、たぶんここに凝縮していく。
ただし、ここに落とし穴がある。「イヤなことの引き受け」だけが価値なら、それは高単価の専門サービスではなく、むしろコモディティな労働力の切り売りに近い。そして——そのイヤな仕事に群がる人や企業が出てくれば、単価は下がる。 ごく当たり前の需給の話だ。
だから、こう整理できる。
- 誰でもやれるイヤな仕事 → 供給が増え、買い叩かれる。コモディティ化。
- やれる人が限られるイヤな仕事(責任が重すぎて誰も背負いたがらない、資格が要る、ミスが許されない領域) → ここだけが単価を保てる。
BPOのボリュームゾーンだった「ただ面倒でしんどいだけ」の仕事ほど、真っ先に値崩れする。完全な二極化だ。
二極化は、あらゆる業界で起きる
そしてこれは、BPOに限らず、すべての業界で起きると思う。
面白いのは、その分かれ目が「大企業 vs 中小」という既存のヒエラルキーとは一致しないことだ。
AIをエージェントとして、かつ企業として使いこなせるところは、実はそう多くない。むしろ大企業こそ使いこなせない。 意思決定が遅く、部門の縄張りがあり、失敗を許さない文化があり、既存の人員とプロセスを守る力学が働く。AIを本気で入れるとは「今いる人の仕事を消す」ことだから、大企業ほど内部の抵抗でできない。
だから分岐は「使いこなせる企業 vs 使いこなせない企業」であって、それは規模と一致しない。身軽で意思決定が速い企業が上に行き、鈍重な組織は規模を問わず沈む。
そして残酷だが、中小にしか入れない人は、AIより安い単価で働かざるをえなくなる。AIが生産性のラインを引き、そのラインより上の価値を出せない労働は、「AIを使う」より「AIより安く人を雇う」方が合理的な水準まで賃金が押し下げられる。
それでも「心配ない」と言えるのか——少子化という緩衝材
ここで、日本には一つの特殊事情がある。少子化だ。
労働需要がAIに食われて減っても、働く人自体も少子化で激減していく。だから「仕事がなくて人が余る」という最悪の失業社会には、日本に関しては陥りにくい。減る椅子と減る人が、ある程度は相殺される。
欧米の「AI失業」論は、人口が増えるか横ばいの前提で語られがちだ。だが日本は前提が違う。縮む経済に、それ以上の速さで縮む人口。相対的には、むしろ緩衝材がある。
——と、ここまで書いて、少し言いすぎたと思う。「安心」ではない。
2:6:2の法則がある限り、どうなっても沈むところは必ず出る。 これはAIがどうという以前の、集団の構造の話だ。少子化が救うのは「総量」であって、「分布」ではない。下に沈んだ一人ひとりにとって、社会全体の失業率が低いことは慰めにならない。「人手不足なのに賃金は上がらない」といういびつな状態すら起こりうる。
では、人がいる限り残り続けるものは何か
結局、AIが賢くなればなるほど、逆にはっきりしてくることがある。
人は、人と接したいものだ。
仮にAIがカウンセリングを完璧にこなせても、「人に聞いてほしかった」というニーズは消えない。介護でも、教育でも、接客でも——効率ではなく「人が人に向き合っていること」自体が価値になる領域がある。AIが有能になるほど、「わざわざ人間がやってくれること」の希少価値はむしろ上がる。
ざっくり言ってしまえば、人間力のある人は残り続ける。
そして、これは冒頭のBPOの話とちゃんとつながっている。「AIにできない仕事」の正体は、技術的な難しさではなく、「人がやることに意味がある」ことだった。感情労働がしぶといのは、難しいからではなく、人がやるから価値があるからだ。
だから、教育を変えないといけない
ここまで来て、思うことがある。今の学校教育で身につく学力は、そのほとんどをAIが代替してしまう。知識の暗記と再生、決まった手順で正解を出す力——テストで測れる学力ほど、AIに食われる。
では、人間力は学校で教えられるのか。
難しい。人と接する力、場の空気を読む力、信頼される力、しんどい相手に向き合う胆力——これらは教科書で教えて試験で測るものと、本質的に相性が悪い。教えようとした瞬間に「マニュアル化された人間力」になり、それこそAIが得意な形に堕ちてしまう。
だから必要なのは、今の学校に科目を足すことではなく、学びの形そのものを変えることだ。
「教える・教わる」を、やめた
実は、私の会社ではもう舵を切っている。
「教える・教わる」ではなく、「一緒に仕事をして、先輩の仕事っぷりを感じてほしい」 と言っている。
覚えることなんてない。AIがあるのだから。やるべきことは、感じること。人と人が何をすることなのか、それを体で受け取ること。
「教える・教わる」は、教える側に「渡せる正解=知識」がある前提の関係だ。だが、その知識はもうAIが持っている。渡すものが知識でなくなった瞬間、この関係の形そのものが用済みになる。だから私は、上下の「渡す関係」をやめて、横に並んで「一緒にやる関係」に変えた。
考えてみれば、これは人類がずっとやってきた徒弟制に近い。職人が弟子に「見て盗め」と言ったのは、根性論ではなく、言語化できない身体知は一緒にいる時間でしか移らないと知っていたからだ。近代の学校教育は、それを「言語化して効率的に大量に配る」方向に振り切った。そして今、その「言語化できる部分」をAIがまるごと引き取った。だから振り子が戻る。言語化できないものを、また人から人へ、時間をかけて移す時代へ。
最先端に見えて、実は一番古いやり方への回帰なのかもしれない。
誤解のないように
ここまで、BPOという仕事をかなり突き放して分析してきた。だが念のため書いておくと、これは「BPOに価値がなかった」という話ではない。むしろ逆で、企業が自前で抱えたくない業務を、品質を保って引き受け続けてきたからこそ、この産業は成立してきた。その現場の努力は本物だ。
私が言いたいのは、その価値の「支えられ方」が、AIによって変わるということだ。情報の非対称性という土台が崩れる分、これからは「人がやることに意味がある」領域へと、価値の重心が移っていく。沈む部分と、むしろ濃くなる部分がある。その見極めが要る、というだけの話である。
おわりに
「BPOってこれからどうなるんだろう」という、ふとした疑問から始まった思考は、ずいぶん遠くまで来た。
どんな仕事が残るかの話は、どんな人が残るかの話で、それは何を育てるかの話だった。全部つながっていた。
AIが奪うのは、言語化できる仕事だ。人に残されるのは、言語化できないもの——人が人に向き合うときにだけ生まれる何かだ。それを次の世代にどう手渡していくか。答えはまだ出ていないが、少なくとも「覚えさせる」ことではない、とだけは確信している。
感じてもらうこと。一緒にいること。
たぶん、そこからしか始まらない。
出典:https://www.allaboutai.com/resources/ai-statistics/global-ai-adoption/